「忍耐する剣道を子供らに」/スポーツ体験・観戦記
(産経新聞2005年3月11日夕刊)


 四十歳過ぎから始めた剣道もやがて二十年になる。その間、段位は当初の目標に達した。年をとったし、そろそろやめてもいいかなと思ったりもする。しかし、なぜかやめられない。剣道の理念は自らを律し相手を敬い尊ぶことである。この精神のもとで大人も子供も日々の稽古を積むわけである。これがなかなか耐え難く身につかない。

 厳寒であろうが胴着一枚であり、酷暑の中でも防具をまとって稽古する。すべて快適な時代に逆行して剣士は淡々と繰り返すだけだ。稽古にしても、基本動作を繰り返すだけで子供たちを引き付けるような派手さは何一つない。

 しかし、地味で忍耐を要する稽古を積んできた子供たちは、りりしいものである。背筋を伸ばして正座している姿は子犬のようにじゃれついてきていた子供たちではない。無自覚ながらも気骨を宿した剣士の顔である。

 この凛(りん)とした姿を見て胸を熱くするのは私だけではないはずである。地稽古となれば道場は喧躁(けんそう)と怒号の坩堝(るつぼ)と化す。時には暴力と見間違うほどの激しさになる。こんな指導の場にわが子を託している親はわたし以上の熱い思いを抱かぬはずがない。

 暑さ寒さの中に身を置くのも修業。子供を見守るのは親の修業。指導者の修業は倦(う)まず飽かずである。道場に集まるものがそれぞれの立場で剣道のなんたるかを問い続けているわけだ。

 犯罪に遭う子、走る子。子供が危ないといわれて久しい。それぞれの最たる原因はわがままに放任されてきた子供らに多いという。ならば道場に通うこの子らは大丈夫である。日々の厳しさに耐えている。泣きながらでも稽古をやり通す。アザが出るほどに打たれても逃げ出すことはない。たとえ、泣こうが叫ぼうが稽古は中断されることはないし、親が助けに入ることもない。そんなこと覚悟のうえである。

 今の子供たちに必要とされることのすべてが課されているのが剣道である。剣道は礼に始まって礼に終わることを旨とする。正座をし、両手をついて親に礼をする子供たちの姿は剣道の真骨頂である。

 何かにつけ年齢を痛感する六十路にあって、彼らはわたしの胸を熱くしてくれる。薄れていく熱いものを蘇らせてくれる。やめられないゆえんである。

原田大作さん 大阪府堺市61歳


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